まずはじめに、当ブログはプログラミングとトランスジェンダー(FTM)について色々と悩みのある方に向けて、ほんの少しでも力になれたら良いなというスタンスで発信している“メッセージブログ”です。
プログラミングに興味がない方・LGBTQに理解のない方は退出していただいて構いません。
では早速、私の生い立ちからご覧ください。
1.出生〜幼少期
1983年10月16日 福島県いわき市に次女として3人兄姉の末っ子として生まれる。
幼い頃から『ザ・田舎っ子』という感じで、常に近所の公園や裏山などで遊んでは体に生傷が絶えない活発な子供でした。夏は黒人並みに肌が黒くなっていましたw
2.小学生時代
物心がつき始め気持ちも段々と自我が芽生えてきました。
毎日学校が終われば放課後に男の子の友達と遊ぶのが日課で、校庭で遊んだり帰り道のドブ川や公園で遊んだりしていました。
3年〜4年生くらいになると、男女の区別がつき始めます。この時から自分自身の“性の違和感”を持つようになります。
5年〜6年生には好きな子の話になったりもして、周りの女の子は「○○君がカッコイイ」とか「○○君が好き」という中、性の違和感を持つ私は(△△ちゃんが好き)だなんて言えなかったことを覚えています。
3.中学生時代
小さい頃から運動は大好きだったので運動部のバスケットボールに入部し、楽しくて楽しくて仕方なかったです。
好きな子もできましたが、相手はは女の子だったので周りの目を気にして告白なんてできませんでした。相変わらず“性の違和感”はあるものの、身体は発育していくため(自分は女なんだ)と認めざるを得ず、なんともやるせない気持ちになりました。
学校のトイレで好きな子とふざけてキスしている所を目撃され、学校では「レズだ」「変態だ」など陰口を言われ、周りのみんなが離れていったのを覚えています。
当時はセクシャルマイノリティに関する教養も知識もなかったので、“周りと違う”というだけで後ろ指を指される状態でした。
物心ついた時から性的指向(好きになる性別)は全員女の子で、一度も男の子を好きになることはなかったですね。
4.高校生時代
中学の頃の教訓を生かし、静かに目立たないように学生生活を過ごして行こうと心に決めた矢先、小学校の頃の友人に「人手が足りないから手伝ってほしい」と部活動の試合に誘われました。
一度きりならと思いバスケの試合に出たことをキッカケに、3年の引退までしっかり部活動に励むことになりましたw
高校は地元の商業高校で男女共学でしたが、当時はほぼ女子校並に男子が少なかったので個人的にはハーレム状態でした。
やはり思春期の気持ちには逆えず、クラスメイトの女の子を好きになってしまうも、中学の頃の“周りからの冷たい視線”がトラウマで相手に対する人当たりがキツくなっていました。
そんな中ある衝撃的な出来事が起こりました。
それは、2001年にTVで放送された『3年B組金八先生(第6シリーズ)』です。このドラマは一度も見たことがなく正直、私が知っているのは一場面のみで、女優の上戸彩さんが役中で「俺は男だー!」と叫んでいる一瞬の場面だけです。
私はその一場面しか見ていないのにもかかわらず、心臓が“ドキッ”として(自分と似てる…)と感じたのを覚えています。
役柄である『性同一性障害(GID)』を知るのはもう少し後のことです。
5.社会人 18歳〜21歳
高校を無事に卒業し地元の企業に就職しました。物づくりの工場で自分に合っていたのか特に嫌なこともなく、社会人バスケも続けられて楽しく過ごしていました。
ある日、バスケつながりの先輩で本業の他に別な仕事(副業)をしていることを知り、何をやっているのか気になり聞いてみると、勿体ぶって教えてくれませんでした。
後日、「まだ気になってるなら教えるよ」と言われ若干忘れかけていましたが、話を聞くためにある場所へ行きました。
先輩がしていた副業は“MLM(マルチ商法)”でした。純真無垢の社会経験のない私は素直に乗っかり、大して稼げないまま借金を作って辞めました。
きちんとした合法の仕事ではありますが私には無理でしたね。
借金を作り若干友人は離れて行きましたが、良かったことももちろんあります。その経験は私の“財産”となっています。
様々な経営者の方の話を聞く機会があり、『稼ぐため・成功するため』の思考や行動を多く学びました。
私が今現在、人生を前向きに生きようと挑戦できるのには、この時の思考が関係していると思っています。
当時は考えが浅はかで何かを恐れ行動しなかった為、何も身につきませんでしたがw
入社2年目には人事異動で事務職に変更になり、あまりやりがいもなくなってしまい入社3年目を目前に退職しました。
6.社会人 21歳〜25歳
次に勤めたお仕事は清掃業の管理職です。某大企業の子会社ではありますが、人手が不足していることもあり現場仕事も行いました。この会社は業務内容が合わなかったので1年で辞めました。
次の仕事こそは自分に合う仕事がしたいと思い、ハローワークでやっていた“職業適性診断”を受け『製造業』や『解体業』という結果が出ました。
正直、解体業には強い憧れみたいなものがありました。当時は『男社会・力仕事・男の仕事』といったイメージがあり、男として社会に受け入れられたいという強い思いがあったので、募集している所を探し就職しました。
実際その会社は仕事が激減してしまい3年程で辞めてしまいましたが、今でも思い返すと人生で一番楽しい仕事だったと思います。雨の日も暑い日も汗や泥にまみれながら力仕事でクタクタになっても、解体という仕事のやりがいと男の中に混じって仕事をしていることが嬉しかったのだと思います。
もちろん今現在もその仕事をやりたいかと言われたら体力的に無理ですけどね…
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